『ブルータリスト』 素晴らしい映画で、観終わったあとに色々なことを考えています。

ブルータリスト建築は1950年代頃に流行した様式で、戦後の資金不足を解決するためコンクリート打放しのままの建物を作ったことから台頭してきました。"剝き出しの"という意味です。
仕上げ材や装飾が使えないならいっそのことただ箱のようにしまえば、というアイデアが価値感の転換を生み出し、粗野なデザインの方が潔くて格好いいじゃないかという流れに変わったのです。
ボサノヴァなんかもそうですが、今までの価値観をひっくり返すカウンターカルチャーの流れは常にチャンスを狙っています。初期のボサノヴァを代表するレコードメーカー、エレンコレーベルのジャケットは赤と黒だけのモダンデザインでしたが、これもお金が無かったことから二色刷りになったという経緯がありますよね。
転換の萌芽が見えたときに多くの野心家が名を成し、酔狂者が群がり、しばらく経って飽きられるとまた別のスタイルが生まれ・・ その繰り返し。しかしそのなかで、ずば抜けて才能ある作り手から奇跡的に美しいものが生み出されれば、耐えて残ります。
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映画は戦後にハンガリーから米国に移住した建築家トートの物語でありますが、わりと序盤で施主のヴァン=ビューレンからちょっとした質問をされるシーンがあります。
『なんで建築を?』
トートの答え:
『構造について言うなら、立方体だという以外に説明のしようがないんです。
戦争を経てもなお私の作品の多くが生き残り、市街に現存していることが分かりました。
ヨーロッパの出来事の恐ろしい記憶が私たちを虐げるのをやめたとき、それらが別の機能を果たすものになり替わるのを、私は待っています。周期的な民族意識の地殻変動を起こす、政治の起爆剤となることを。
私はすでに予見しています。怒りや怖れが集団レトリックを作り出し、こうした軽薄なものがあちこちで川のように流れだします。ところが、私の建物はドナウ河の河川浸食にも耐えるように考案されているんです』
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エピローグでは時代が突然80年代へ飛び、エレクトリックなプログラミング音楽とともにラースロー・トートの回顧展が開催されました。中年の女性になったラースローの姪が件の建物のコンセプトを語るスピーチでは、当初のデザインの意図に加えてシオニスト的なテーマが強調され、やや違和感がありました。
27年後の姪っ子を演じる女優さんは顔だちも体格も全然似ていなくて、一瞬"これは誰?"みたいな混乱を引き起こすのですが、この女優さんはランティモス監督の奥さんですね・・。ロブスターで変な踊りを踊ってた人ですよね?
スピーチを締めくくったあと彼女は落ち着かなく目をキョロキョロし、その様子からこのシーンは皮肉として意図されているんだろうと感じましたが、どうなんでしょうか。それともコメディか?
・・おそらくこれが彼の言った"レトリック"ですよね。姪っ子は新しい時代の代弁者としてラースロー・トートの建築に新しいイデオロギーを設定しようとしているのです。車椅子でスピーチを聴きながら「それでいいんだよ、あとは任せたよ」という顔の年老いたラースロー。
彼が若い頃に建築について語った答えはそのまま映画や他の芸術にもあてはまり、歴史の普遍性を見つめる監督の思索を表しているようにも思えます。